この時期はまた、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のインド二大叙事詩がかたちづくられた時代でもあった。マハーバーラタは史上最大の規模をもつ壮大な叙事詩であり、ともに後世のインドのみならず東南アジアにも広がって多大な影響をあたえた。ここでは、ヴェーダの神々への信仰は衰え、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナなどの神々が讃えられている。
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん
ダルマ・シャーストラで最も重要なものとされる『マヌ法典』は2世紀ころまでに成立したとみられ、バラモンの特権的地位を規定したほか、4ヴァルナの秩序が定められた。現代のインド人の生活のみならず、その精神にまで深く根ざしており、その影響力は計り知れない。これもまた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』と並んで、東南アジア世界に大きな影響をおよぼした。
インド古典文化の完成
グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立
4世紀前半、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、4世紀後半から5世紀にかけて北インドを統一した。チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、官僚制度・軍事制度が整理され、サンスクリットが公用語に定められた。
アジャンター石窟寺院の壁画4世紀から5世紀にかけてのこの時代は、インド古典文化の黄金時代とされる。宮廷詩人のカーリダーサが戯曲『シャクンタラー』や『メーガ・ドゥータ』などの作品を残した。
また、バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典が広く普及したのもグプタ朝の時代である。
いっぽう、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀にはナーランダ僧院が建てられ、インドはもとより東南アジアやチベットなどの各地から多数の学僧を集めて教典研究が進められた。
医学・天文学・数学なども発展した。「ゼロ」を発見したのも、古代インド人だといわれている。
グプタ朝は、5世紀以降「白いフン族」と呼ばれたエフタルの中央アジアからの侵入に悩まされ、6世紀半ばには滅亡へと追い込まれた。貴族や都市民の寄進などによって成り立っていた仏教教団は、グプタ朝の弱体化・分権化にともなってその保護者を失っていった。
ヴァルダナ朝とラージプート時代の到来
6世紀後半の北インドは政治的分裂の時代にあったが、7世紀初頭になってハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が現れ、カナウジを都としてヴァルダナ朝を創始した。ハルシャ王は、仏教とヒンドゥー教を保護し、地方有力者には領土を封ずるかたちでの統治を推進し、また、カナウジはその後北インドの政治の中心となって発展した。ハルシャ王の時代、唐僧の玄奘がインドに訪れ、ナーランダ僧院で教典研究にいそしみ、多数の仏典を持ち帰ってその後の漢訳仏教の基礎が固められた。
ヴァルダナ朝はハルシャ王一代で瓦解し、これらの古代王朝の後、7世紀半ば以降はラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び分裂した。義浄が訪れたのも分裂時代のインドであった。ラージプートは、中央アジア方面から北西インドに侵入した異民族の子孫だといわれている。かれらは軍事的にすぐれ、各地を支配し、その下に大小領主層がいて、地主や農民を支配した。プラティハーラ朝がそのなかで最大のもので、イスラム勢力の侵入を11世紀初頭まで食いとめたことで知られる。また、10世紀から12世紀頃にかけてチャンデーラ朝の歴代君主は、世界遺産にもなっているカジュラーホーの寺院群を建設した。
こうしたなかで職能集団が形成され、それぞれ世襲化されるようになり、今日のカーストにつながる「ジャーティ」と呼ばれる集団単位が成立していったとみられる。
南インドの諸王朝
マハーバリプラムの「石彫寺院」(ラタ)、7世紀詳細は前期チャールキヤ朝、パッラヴァ朝、ラーシュトラクータ朝、チョーラ朝、エローラ石窟群、パッタダカルをそれぞれ参照
武勇をほこったハルシャ王も、デカン高原を本拠とするチャールキヤ朝にだけは破れ、南インド進出は阻まれた。6世紀から8世紀にかけての前期チャールキヤ朝には、7世紀のプラケーシン2世や8世紀のヴィクラマディーティヤ2世などの君主が現れ、とくにヒンドゥー教建築の隆盛は顕著で、チャールキヤ朝のさらに南にあってそれと対峙したタミル人王朝パッラヴァ朝の建築は高水準をほこった。パッラヴァ朝時代の建築としてはマハーバリプラムの建造物群が著名で、その技術はヴィクラマディーティヤ2世によってチャールキヤ朝に伝えられ、首都バーダーミや「戴冠の都」パッタダカルに数多くの寺院建築を生んだ。
前期チャールキヤ朝は封臣の1人であったダンティドウルガに王位を追われ滅亡、ダンティドウルガはラーシュトラクータ朝を創始し、プラケーシン2世の弟から分かれた東チャールキヤ朝と対峙した。ダンティドウルガには子がなかったため、叔父のクリシュナ1世が継ぎ、エローラ石窟群のカイラーサナータ寺院を建設した。いっぽう、パッラヴァ朝もさらに南方にあったパーンディヤ朝と抗争し、台頭するチョーラ家などとも合従連衡を繰り返したが、最終的にはヴィジャヤラーヤ創始のチョーラ朝によって滅ぼされた。
北インドのイスラーム化と南インド
ガズナ朝・ゴール朝の侵入
クトゥブ・ミナール(インド最古のミナレット、13世紀)詳細はガズナ朝、ゴール朝をそれぞれ参照
10世紀後半、中央アジアにあったイラン系王朝サーマーン朝のテュルク系マムルークであったアルプテギンがアフガニスタンで自立してガズナ朝を建て、しばしば北インドへ侵入してパンジャーブを領有した。ガズナ朝にかわり台頭したテュルク系のゴール朝も北インドに進出し、この地の統治を図って北インドのラージプート諸王国の連合軍と対峙した。連合軍は、内部の結束が整わず、大敗した。いっぽう、ゴール朝のマムルークであったアイバクは、ゴール朝の軍とともに北インドにとどまり、1206年にデリーに都をおいて奴隷王朝を建てて自立した。これより約300年間、デリーを都としたムスリム五王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルタン朝と称する。
デリー・スルタン朝
奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝の君主はいずれもスルタンの称号を用い、デリーに都を置いたため、デリー・スルタン朝と総称される。五王朝は北インドをあいついで支配し、特に14世紀初頭のハルジー朝のアラーウッディーン・ハルジーと14世紀前半のトゥグルク朝のムハンマド=ビン=トゥグルクの治世には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。最後のロディー朝のみアフガン系であるが、他はいずれもテュルク系である。こうしたなか、ティムール軍が1398年にデリーに侵入している。
この時代の北インドでは、インド在来の社会組織を利用して統治する現実的な方法がとられ、イスラームへの改宗が強制されることはなかったが、イスラーム神秘主義者スーフィーの活動などもあって、都市を中心に徐々にイスラームが普及していった。
南インドのヒンドゥー諸王国
一方で南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のヒンドゥー王国チョーラ朝がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。チョーラ朝は12世紀末に再建されたパーンディヤ朝(後期パーンディヤ朝)によって13世紀後半に滅ぼされた。その後、一時、北インドの勢力が南下したが、14世紀後半から16世紀初頭にかけてはサンガマ朝、サールヴァ朝、トゥルヴァ朝、アーラヴィードゥ朝のヒンドゥー四王朝がヴィジャヤナガル(ハンピ)に都を置いて繁栄した。これを総称してヴィジャヤナガル王国と呼んでいる。ここでは、北インドとは対照的にヒンドゥー文化の隆盛と爛熟がみられた。ハンピの都市遺跡などに当時の繁栄ぶりを今日に伝えている。
1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。
バクティ信仰とシク教の創始
北インドのイスラーム支配は14世紀にはデカン高原にもおよび、トゥグルク朝の臣下であったバフマニー朝が14世紀後半から15世紀末にかけて自立、ムスリム政権を成立させた。
やがて北インドでは都市と商工業が発展し、ムスリム商人の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。イスラームの平等主義的な一神教の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心にバクティ信仰がひろまった。身分の低い人びとのあいだでイスラームに改宗する人も増えた。やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れをくむグル・ナーナクによってシク教が創始された。
ムガル帝国の盛衰とヨーロッパ勢力の進出
タージ・マハル, アグラ
ムガル帝国の建国と隆盛
16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、最後のデリー・スルタン朝とされるロディー朝の君主イブラヒム・ロディーをパーニーパットの戦い(1526年)で破ってデリー入城を果たし、ムガル帝国を建てた。
その孫にあたる3代皇帝のアクバルは、アフガニスタンから北インドにかけての広大な領域を支配してアグラに都を遷し、ジャイプールの領主でヒンドゥー教徒のビハール・マルの娘と結婚し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒との融和を図るためにヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止するとともにザプト制という定額地租制度が導入されて、帝国財政を安定させ、マンサブダーリー制を確立させて統治機構の整備にも努めた。アクバル治下のインド社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発におこなわれた。
17世紀前半の5代シャー・ジャハーンの時代に帝国はもっとも繁栄し、ムガル文化は最盛期をむかえ、その支配領域はデカン方面にもおよんだ。デリーに再遷都され、首都デリーには居城デリー城(赤い城)、旧都となったアグラには亡き妻の霊廟タージ・マハルが建設された。
文化的には、宮廷でペルシア色の強いインド・イスラーム文化が発展した。当時のムガル絵画はイランのミニアチュール(細密画)の影響がみられるほか、宮廷内ではもっぱらペルシア語が使用され、ムガル帝国の代表的建築であるタージ・マハルも、イラン系技術者が多くかかわっていた。ヒンディー語文法にペルシア語・アラビア語の単語を取り入れたウルドゥー語が成立したのも、この時代であった。